初めて就職した頃のこと

短大を卒業して就職するまで、ほとんど働いたことがなかった。就職先は大手スーパーでいきなり花売場をまかされてしまった。前の店長や従業員の方に色々教えてもらい、なんとか仕事をしていた。仕事は初めてのことだらけで失敗も多かった(というか失敗ばかりだった)が売上が上がると嬉しくて、パートの先輩方も新人の社員のわたしに優しくしてくれて、とても楽しかったし毎日が充実していた。
入社して初めての社員旅行の朝。シャワーを浴びて朝ご飯を食べていたら突然、トマトジュースが天井に向かって飛び散った。テレビが台から落ち、部屋が壊れそうなくらいガンガン揺れた。今までで体験した中でも一番大きな揺れだった。
揺れが収まり、恐る恐る部屋を出た。共用のキッチンと玄関には物が散乱していた。花瓶が割れていかにも危なかったので片付ける。部屋の中は狭いところにギリギリ入るサイズのハイベッドを入れていたので、幸いにもビクとも動いていなかった。他の物の被害もほとんどなかった。そもそも物がそんなに無かった。電話、パソコン、CDプレイヤー、本、着替え位。
この初めて一人暮らしをしたアパートは一部屋を2人で使うようになっていて、つまり個室には玄関の物とは別の鍵が付いていて、ミニキッチンとユニットバストイレが共用という少し変わった物件だった。阪神青木駅から徒歩10分位で家賃が4万位だった。でも、この激狭鉄筋アパートのお陰で私たちは助かった。(裏の木造アパートは崩れていた)
揺れのショックから少し落ち着きを取り戻した頃、防災無線で「ガス漏れしている恐れがあるので避難して下さい」と聞こえてきた。
同じ部屋を借りていたルームメイトと恐る恐る外へ出た。そこは瓦礫の町だった。呆然と駅の方へ進む。こんな所に壁?あったっけ?と思ったら、高速道路が横倒しになっていた。これはやばい。恐ろしくて血の気が引いた。
道路を渡った先の公衆電話に長蛇の列が出来ていた。そうか、実家に連絡しないときっと心配している、そう思い列に並ぶ。神戸でこんなやから、東京はもう沈んでるかもな…。まさか自分が震源地にいるとは思わず、日本全体が被害にあっているのだとなぜか思っていた。数十分待ってやっとわたしの番がきた。実家にかけたら母が出た「何か地震大きかったんやってね~」と呑気な声を聞き力が抜けた。実家は何ともないらしい。とりあえず無事だからと告げて次の人に番を譲る。
いったん部屋へ戻り、ルームメイトとこれからどうするか相談した。彼女も同じ会社の社員だったので、とりあえず店に行ってみようということになった。ルームメイトは社員寮で仲良くなった子で(高卒だから2才年下)当然2人とも実家は遠く帰れなかった。
わたし達はお金を持ち、部屋を出た。
電車もバスも走っていない。がれきだらけになった町をただただ歩いた。ひどく壊滅的に町全体が壊れていて所々青い炎がみえた。戦争の爆撃の後ってこんな感じだったのかな~とぼんやり思いながら歩いた。三宮の裏通りでJ'sBarを見つけた。村上春樹の小説に出てくる店だ。ちょっとこんな時だがテンションが上がった。地獄で聖地とは。
三宮の近くで営業しているローソンがあった。混乱を避けるためか、割れたガラスドアの下から店員さんが注文を聞いてお金と交換してくれた。とりあえず飲み物と軍手を買った。どんぶり勘定だったが、売ってくれてありがたかった。その近くの小学校が避難所になっていたので、そこで休ませてもらった。避難所にはテレビがあって、そこでわたし達は初めて自分達がこの地震の中心地にいることを知った。呆然と体育館の床に座り込んだ。疲れて眠ったかもしれない。おにぎりをもらったことは覚えているがここにいたときのことはあまり記憶がない。
勤務先の店に行くのは諦めて、部屋に戻ることにした。歩いていたらバスが一部運行をしていたので乗る。NHKの記者さんに「バスの運行が再開されましたがいかがですか?」と聞かれた。正直に嬉しいけど一部なので…と答えた。バスの終着地から家まではまだまだ歩かなければならなかった。疲れ果てて部屋へ戻る。不幸中の幸いというか、旅行前だったのでバスで食べるおやつを買っていたから、何日かそれを食べて過ごした。
部屋にいても仕方がない、仕事にも行けそうにないし、一旦大阪の親戚の家に行かせてもらうことにした。ルームメイトと2人、今度は大阪方向へ向かって歩いた。途中、運転を再開している駅があったのでそこから電車で大阪に向かった。大阪に近づくにつれて、がれきが少なくなり、日常の世界に戻っていった。なぜか涙がでた。