時が経てば人も変われば街も会社も変わる

時を戻して(進めて?)現在。癌と宣告され、かなり厳しい見通しの説明を受けたわたしは、やりがいのあった楽しい職場を辞めた。そして検査入院の後、放射線治療を25回受けて、ほとんど塞がっていた食道と気道が通るようになり、リンパ節に転移していた腫瘍もほぼなくなり、痛みと苦しさから解放された。まさかついこの間まで死を覚悟していたのに、こんなにあっさりと体調が戻るだなんて!そして癌保険に入っていなかったわたしに迫りくる高額の医療費。。わたしは(高額医療費限度額)17万の女になった。
2022年7月1日。わたしはベルシステム24の面接を受けていた。場所は横浜みなとみらい、クイーンズタワー。みなとみらいのクイーンズタワーといえば、クリスマスの装飾が好きで、ナナと何度も見に訪れたことがある。でも、上層階のビジネスゾーンへ行くのはこれが初めて。商業ゾーンからエスカレーターでエレベーターホールまで上がり、専用のエレベーターで最上階へ登る。かなり大勢の人が降りたが、皆オフィスの中へ消えてしまい、面接を受けるのはわたしだけのようだった。約束の時間にはまだ早かったので、窓際の通路から外を眺める。みなとみらいが一望できた。ナナが小さかった頃よく行っていたジャックモールが、上から見ると廃墟のようになっていた。向かいにあったはずのお城みたいな結婚式場は見えなかった。15年も経つと、ナナは成人して社会人に、わたしは50手前になったように、街も老けていや変化していくのだと見せつけられた。
時間が来て面接。質疑応答をしている内に、わたしが誤って経験者(それも責任者)として応募してしまっていたことに気が付く。(ちなみに、選挙の出口調査、2日間という触れ込みのバイトだった) でもまぁせっかくいらしたことですし、と女性の面接官はわたしのビジネススキルを尋ね、わたしの希望条件に合う職があれば紹介してくれると言って、面接は終わった。わたしは目の前に座る、ビジネスウーマンに言ってやりたかった。「わたし、30年ほど前におたくの会社でアルバイトしていたんですよ」と。そう、彼と会うための旅費を稼ぐために始めたテレクラのサクラのアルバイトの会社が、正に今わたしが面接を受けている会社なのだった。
わたしがベルシステム24に電話をかけると案内が流れてくる。しばらく待っていると電話がつながる。わたしは電話をかけてきた男や女と話をする。イヤらしいことを聞かれたり、言わされたり、聞かされたり…。話した時間によって給料が振り込まれるという仕組みだった。夜の空いた時間に、自宅で出来るし、暇つぶしになるし、淋しかったら時間つぶしに電話の相手に会いに行っても良かった。勿論、身体だけのワンナイトアフェアーだ。お互い様なのでお金は取らないし、ホテル代も割り勘だったりした。知らない人と会ったりホテルへ行ったりすることに、不思議と恐れはなかった。ヤバいやつは電話で話しているときに何となく分かったからかもしれない。安全そうな人とだけ会うようにしていた。もしその時わたしがその人に会いたかったら、だけど。
そして夫となる人と出会った。

彼氏いない歴=年齢のまま死ぬのは嫌だった。

店の先輩で家電売り場にKさんという人がいた。わたしと同じ九州は長崎の出身で、飄々として優しい笑顔の先輩。わたしは彼のことがいつの間にか好きになっていた。その時までわたしは誰かと付き合ったことがなかった。でも、明日また大地震が来て今度こそ死ぬかもしれないのだ。どうせ死ぬのなら、誰かと付き合ってから死にたい。思い切ってわたしは彼をレピッシュのライブに誘うことにした。一緒に行くはずの友達が来られなくなったから、と嘘をついて半ば強引にチケットを渡した。それで一緒にライブには行って、ライブの後興奮冷めやらず、公園で缶チューハイで乾杯をし、その勢いでキスをした。
しかし、その後も彼からは何のアプローチも無く、少し仲の良い先輩、後輩のままだった。このままでは彼氏のいない歴=年齢で死ぬことになる!焦ったわたしは、当時お気に入りだったLong Vacation のCDを、良かったら聞いて下さい、と彼に渡した。直接、口で言うのは恥ずかしかったので、CDの帯?の裏に「好きです、つきあって下さい」と書いて渡した。
数日して先輩と二人きりになることがあった。あれ、どういう意味?本気なの?と聞かれて、気づいてくれたんだ!と驚き、嬉しかった。わたしで良かったらつきあってもらえませんか?と我ながらしおらしく言った。良いけど…。と照れながら言われた。
何度かデートをした。散歩とか食事、映画。キスもした。でも、それ以上にはなかなか進まなかった。このままでは処女のまま死ぬではないか!そう思ったわたしはつきあった記念旅行へ行こうと彼を誘った。行き先は金沢で、帰ってこられない→お泊まり→一緒に寝ることに!キャー。
でも、それでも彼はなかなか手を出してこなかった。仕方なく自分から誘った。
その彼とは毎日ラブラブで、店でも公認の仲になった。付き合いだして気付いたのは、彼がパチンコ中毒だということ。だから、デートも付き合うことにもあまり乗り気ではなかったのだ。彼にとって優先順位の第一位はわたしではなくパチンコだった。デートはいつもパチンコだった。わたしはつまらないので、スロットのプラムやオレンジを集めてみたりしたが、退屈でしょうがなかった。でも、彼のことが大好きで幸せだった。
彼が東京に転勤になった。震災の影響を、受けた会社が改革を始め、そのメンバーに選ばれたのだ。悲しかったけど、泣きながら引っ越し準備を手伝った。一緒に東京に行かへんの?と周りの人達に言われた。わたしもそうしたかったが、彼はわたしを受け入れる自信がないと言った。遠距離恋愛が始まった。わたしは淋しくて5キロくらいやせて、会いに行くと彼は「ウエストが出来てる!」と喜んだ。デートはやはりパチンコだった。
中間地点で会いたかったけど、お互いに交通費と宿泊費がかかるし、結局わたしが彼の家に行くことになった。わたしの方が彼なしではいられなかったので仕方がなかった。交通費を稼ぐため、淋しさを紛らす為にわたしはテレクラのバイトを始めた。

この世は不公平だ。

いい子にしていた。親の言うことを(聞ける範囲で)聞き、親や周りが喜ぶようなことを言ったりしたりしていた。禁止されていたアルバイトはせず(長期休暇の時、親戚の家で犬の散歩と家事手伝いをしてお小遣いと学費を出してもらっていた)、一言も聞き漏らさないように授業を受け、一生懸命課題にとりくみ主席で(地方の短大だけど)卒業した。就職氷河期だったが、誰でも知っている大手スーパーに就職した。
もしあの地震に遭わなければ、わたしは今もあのスーパー(会社は変わったけれど)で働き続けていたかもしれない。何の疑いもなく良い子の一生を一所懸命生きていたかもしれない。それはそれで幸せだったと思う、多分。
あんなに理不尽な自然の暴力を目の当たりにしてわたしは思った。このまま死ぬのは嫌だと。死はそれまでわたしから遠く離れたところにあった。わたしには当分関係ないし、周りの人にも死に近い人などいないと思っていた。まさか自分が死と隣り合わせになるなんて。あの時地震の後、町をとぼとぼ歩いていた時、道端に人が倒れて動かないでいるのを見ないようにした。わたしは本能的に死から逃げて、今、自分が生きることに意識を向けていた。自分のことで必死だった。
後になり、被害の全体像を知ってわたしは思った。人は皆、平等に死ぬんだと。良いことばかりをしてきてそれが認められなかった人も、悪いことばかりをしてきてそれがばれなかった人も、自然の暴力の前では皆平等に死ぬ。21のわたしはそのことに愕然とした。よい行いをしていれば、良い人生が送れる保証はないのだ。
ならば、と思った。人の顔色を気にして、人の価値観の中で生きるのはやめようと。したいことをして、生きたいように生きようと思った。だっていつ死ぬかわからないじゃん。岡村靖幸の歌詞がストレートに理解できた。
エビバディ!今日中にやりたいことゼンブをやっちまおうゼぇえええ~♪だって、来週じゃ、来週じゃ♪ ※※※青春しなくちゃマズいだろ♪ などなど。
したいことが今あるのなら今しなくちゃ。
それから、戻るなと言う親戚の保護の手を振り切って(ちょっと勘当されるみたいな勢いで)わたしは部屋に戻った。電車の運行が再開されたのも大きかった。ほどなくして実家に戻っていたルームメイトも戻ってきた。
町は大分片付いていたが、わたし達のアパートの給水タンクは壊れたままで、断水が続いた。アパートから10分位の海に(あんなに海の近くにアパートがあったとはそれまで知らなかった)自衛隊の給水艇が来てくれたので、タンクを持って水をもらいに行った。近くの小学校の校庭に自衛隊の仮設風呂が出来てありがたかった。本当に自衛隊の方には大変お世話になった。感謝してもしきれない、足を向けて寝られない。丸まって寝るしかない(全国におられるから) 本当に自衛隊の方々には感謝しかない。
久し振りに出勤した店は大繁盛していた。わたしが働いていた店は神戸の北の方にあったので、被害はさほど酷くはなかったからだ。上の人は言った。自分達はボランティアではない。商売人だ。だから今は商機だと。売って売って売りまくれと。花屋も大忙しだった。お弔いの花がものすごく売れた。たまには普通の花も売れた。お花でも飾って気分を明るく変えたいわ。そう仰るマダムに「余裕があって良いですね」と、つい嫌みを言ってしまい後で自己嫌悪に陥る。あの方は何も悪くないのに…。誰も悪くない。いつもの生活を取り戻そうとするマダムも、この天災をチャンスと捉えている会社も、がれきの町から何事も無かったような町へ花を売りにゆくわたしも、公園に住まざるを得なくなった人達も、公園で遊べなくなったと不平を言う子ども達も、誰も悪くない。でも何か釈然としない。この世は不公平だ。周りの大人達に護られて育てられてきたわたしは、初めてそれが真実だと解った。

初めて就職した頃のこと

短大を卒業して就職するまで、ほとんど働いたことがなかった。就職先は大手スーパーでいきなり花売場をまかされてしまった。前の店長や従業員の方に色々教えてもらい、なんとか仕事をしていた。仕事は初めてのことだらけで失敗も多かった(というか失敗ばかりだった)が売上が上がると嬉しくて、パートの先輩方も新人の社員のわたしに優しくしてくれて、とても楽しかったし毎日が充実していた。
入社して初めての社員旅行の朝。シャワーを浴びて朝ご飯を食べていたら突然、トマトジュースが天井に向かって飛び散った。テレビが台から落ち、部屋が壊れそうなくらいガンガン揺れた。今までで体験した中でも一番大きな揺れだった。
揺れが収まり、恐る恐る部屋を出た。共用のキッチンと玄関には物が散乱していた。花瓶が割れていかにも危なかったので片付ける。部屋の中は狭いところにギリギリ入るサイズのハイベッドを入れていたので、幸いにもビクとも動いていなかった。他の物の被害もほとんどなかった。そもそも物がそんなに無かった。電話、パソコン、CDプレイヤー、本、着替え位。
この初めて一人暮らしをしたアパートは一部屋を2人で使うようになっていて、つまり個室には玄関の物とは別の鍵が付いていて、ミニキッチンとユニットバストイレが共用という少し変わった物件だった。阪神青木駅から徒歩10分位で家賃が4万位だった。でも、この激狭鉄筋アパートのお陰で私たちは助かった。(裏の木造アパートは崩れていた)
揺れのショックから少し落ち着きを取り戻した頃、防災無線で「ガス漏れしている恐れがあるので避難して下さい」と聞こえてきた。
同じ部屋を借りていたルームメイトと恐る恐る外へ出た。そこは瓦礫の町だった。呆然と駅の方へ進む。こんな所に壁?あったっけ?と思ったら、高速道路が横倒しになっていた。これはやばい。恐ろしくて血の気が引いた。
道路を渡った先の公衆電話に長蛇の列が出来ていた。そうか、実家に連絡しないときっと心配している、そう思い列に並ぶ。神戸でこんなやから、東京はもう沈んでるかもな…。まさか自分が震源地にいるとは思わず、日本全体が被害にあっているのだとなぜか思っていた。数十分待ってやっとわたしの番がきた。実家にかけたら母が出た「何か地震大きかったんやってね~」と呑気な声を聞き力が抜けた。実家は何ともないらしい。とりあえず無事だからと告げて次の人に番を譲る。
いったん部屋へ戻り、ルームメイトとこれからどうするか相談した。彼女も同じ会社の社員だったので、とりあえず店に行ってみようということになった。ルームメイトは社員寮で仲良くなった子で(高卒だから2才年下)当然2人とも実家は遠く帰れなかった。
わたし達はお金を持ち、部屋を出た。
電車もバスも走っていない。がれきだらけになった町をただただ歩いた。ひどく壊滅的に町全体が壊れていて所々青い炎がみえた。戦争の爆撃の後ってこんな感じだったのかな~とぼんやり思いながら歩いた。三宮の裏通りでJ'sBarを見つけた。村上春樹の小説に出てくる店だ。ちょっとこんな時だがテンションが上がった。地獄で聖地とは。
三宮の近くで営業しているローソンがあった。混乱を避けるためか、割れたガラスドアの下から店員さんが注文を聞いてお金と交換してくれた。とりあえず飲み物と軍手を買った。どんぶり勘定だったが、売ってくれてありがたかった。その近くの小学校が避難所になっていたので、そこで休ませてもらった。避難所にはテレビがあって、そこでわたし達は初めて自分達がこの地震の中心地にいることを知った。呆然と体育館の床に座り込んだ。疲れて眠ったかもしれない。おにぎりをもらったことは覚えているがここにいたときのことはあまり記憶がない。
勤務先の店に行くのは諦めて、部屋に戻ることにした。歩いていたらバスが一部運行をしていたので乗る。NHKの記者さんに「バスの運行が再開されましたがいかがですか?」と聞かれた。正直に嬉しいけど一部なので…と答えた。バスの終着地から家まではまだまだ歩かなければならなかった。疲れ果てて部屋へ戻る。不幸中の幸いというか、旅行前だったのでバスで食べるおやつを買っていたから、何日かそれを食べて過ごした。
部屋にいても仕方がない、仕事にも行けそうにないし、一旦大阪の親戚の家に行かせてもらうことにした。ルームメイトと2人、今度は大阪方向へ向かって歩いた。途中、運転を再開している駅があったのでそこから電車で大阪に向かった。大阪に近づくにつれて、がれきが少なくなり、日常の世界に戻っていった。なぜか涙がでた。

海に落ちてから

海に落ちたりごたごたしていた中で、いつの間にかスマホがお休みモード(そんなのあったのも知らなかった)になっていたらしい。母から何度か着信があったらしいが、気付かずにいた。
年が明けて夫が仕事のために単身赴任先に戻り、わたしはまた前のように呑んで呑んで呑んでいた。何気なくスマホを見たら着信ありの表示。また店長か~と思いかけ直す。今後どうするか、を話し合うために店に来るようにとのこと。5日に行くことになった。気がとんでもなく重い。
なんとか身支度をして家を出たら、着信。今度は地区長で時間の変更指示だった。
指示された時間に店へ行くと入り口で2人が待ち構えていや、出迎えてくれた。奥の倉庫に通される。
地区長から事情聴取。傷跡を見させられて写真も撮られた。
これからどうしますか?と意思確認。会社側は本人の希望で退職したということをはっきりさせておきたいらしい。もう、こちらでお勤めすることはできません。と伝えると、退職願とか有給消化など手続きがするすると進み、判子を忘れたのでそれは後日ということで、話が終わり店の出口まで見送られて(店内で暴れたりしないように見張られている感じ)店を後にした。
エクゾーストしてまた家のダイニングのいつもの席で呑んでいたら、突然母が来た。
「あんたに全然連絡がつかないから、心配になって」と言う。夫に電話をして、これから家に向かうと言うと、子ども達もいるから大丈夫と言われたが、心配だからと半ば強引に来た。わたしは部屋を片付けないとと思ったが気力、体力がわかずにダラダラと呑んでいた。この頃ご飯はどうしていたのか記憶にない。ある物を適当に食べていたのか?夫が冷蔵庫をパンパンにしていってくれていたから。
インターホンが鳴って母がそこにいた。覚悟していたのか、部屋の惨状をみても何も言わなかった。
とりあえず助けてくれた方と警察に挨拶に行こうということになった。手土産?を買いに行って(タオルと靴下は新しいのを買ってお返しした)電車とバスで海の近くの交番に行った。みぞれ混じりの寒い日だった。交番は非番の日で、翌日に改めることにして家に帰る。みぞれで挨拶品の紙袋が破けたりして大変だった。
 翌日、母がこういう事(謝礼、謝罪?)は午前中にしたほうが良いというので慌てて身支度をしてバス停に急ぐ。
昨日、連絡をしていたからか交番にお巡りさんがいて対応してくれた。助けてくれた方のお住まいは教えてもらえなかったので、お巡りさんに渡してもらうように託した。やはり、手紙を書くべきだった。直接お礼が言えるものだと思っていた。
 家に帰り、少し休憩。自分がしてきたことの酷さを改めて思い反省する。母はしてしまったことは仕方がない。これから償い続けるしかないと言い、部屋の片付けを始めた。わたしも少しずつ部屋中にあった箱(飲み終わったワインの)をまとめて捨てたり、瓶をまとめて捨てたり、とにかく2人で目に付くゴミを全て捨てていった。久しぶりに掃除機をかけ、床を拭いた。ダイニングテーブルの向きを変えてみんなが座りやすいようにした。(それまではほぼわたしが座ったり寝たり、3脚を独占していた
)
お母さんが手伝ってくれて、家中のゴミを捨ててすっきりしたら、今度はこのままではいけないと猛烈に焦り始めた。
今まで浴びるように呑んでいたお酒をすっぱりと止めて真人間になり、家族に今までしてきたこと(というかしてこなかったこと、家事、育児の半ば放棄)を詫びた。
片付けていた時、猿田彦様の「悪い人は嫌いです。良い人を助けます」という言葉が書かれた紙が出てきて、好きな物を一つやめて、お参りすると良いとあり、もう絶対にお酒をやめようと誓う。そもそも好きで呑んでいたわけではない。勧められたりつきあったりで苦手なのにどんどん飲んでいき、最終的にゆっくり死ぬ手段として呑んでいた。呑むことで嫌なことを忘れたり、言ったりしないようにしていたし、ヘラヘラと現実から嫌なことから目をそらし、楽しいことばかりを求めて、死にたい現実を少しでもましにして生きていた。でも、あの時海に落ちた時、死にたかった自分が死んだ。暗くては寒くて臭い死から救われたわたしは、もう全然死にたいとは思わなくなっていた。だから死ぬための手段であったお酒をすんなりとやめることができたのだと思う。
お酒をやめたおかげで起きている時間が増え、かじを真面目にするようになり、母も手伝ってくれるので、だんだん時間が余ってきた。わたしは求職活動を始めた。

人生ジェットコースターみたいだ

人生、ジェットコースターみたいだ。というか、ここ最近、ジェットコースターみたいな人生を送っている。

何度転職しただろう。焼き鳥屋さん→○フト→病院のお掃除→○松屋→CDC→わくわく←イマココ

良くもまあこんなにコロコロ転職できたものだ。子宮筋腫が見つかって焼き鳥屋さんを辞めて、その治療中に○フトをダメ元で受けたら受かっちゃって、でも術後の痛みが出て(あと、働いている人達が大変そうで楽しくなさそうだった)辞めて←メーワク
何か仕事しなくてはと手当たり次第に面接に行き、やっと決まった病院は3ヶ月で馘になり(じぶんでも驚く程向いていなかった)落ち込んでいるとき採用してくれたのが○松屋
仕事自体は楽しかったが、女性ばかりの職場でニンゲンカンケイが上手くいかず、最後は朝礼で全員から見つめられる中、店長がわたしの駄目なところをニコニコと話し、結局その後また同じミスをしてしまい、もうホトホトいやんなって、帰ってずーっと呑んで、次の日(年末だった)べろべろのままウイスキー持って家を出て、店とは逆の道を歩き始めた。灯明堂に行きたかったけどたどり着けなくて、堤防に座って海を見ていた。もうすべてがどうでもよくなり、そのまま下に落ちた。
そんなわたしを、たまたま見ていた人がいて、とっさに上着を掴んで引き揚げてくれた。交番に連れて行ってもらい事情聴取。今まであったことを泣きながら話した。警察の方がタオルと靴下をくれて、娘に連絡をしてくれた。娘は着替えを持ってきてくれて、警察が呼んでくれたタクシーで帰宅。タクシーを待つ間ずっと署長さん(かな?)が、つらいことがあるだろうけど死のうとするな。酒はやめろと入ってくれた。
息子は夫のいる香川にいたが、予定を早めて二人で帰ってきてくれた。お正月だったから、おせちやら沢山買ってきてくれてありがたかった。わたしはずっと飲み続けていた。店から何度も連絡がきていたが出られなかった。あまりにずっと通知がきたので電話に出たら店長で、無断欠勤なさるときは連絡を入れていただかないと…とか明日は出勤出来るかとか聞いてきた。あんなことをしておいて、よくもまあそんなことが言えたもんだとビックリ。きっと、言った方、した方はされた方の気持ちが想像もつかないのね。もう無神経すぎてビックリしちゃった。話を聞いていた夫がたまりかねて「おまえらのモラハラのせいだ!警察に行って何があったか聞いてみろ!」と怒鳴ってくれた。ちょっと嬉しかった。
スマホの音がならない設定になっていたみたいで、母から連絡があったようなのだが、全く気が付かず、心配した母が来てくれた。

お弁当生活の練習 3日目

2日目はまずご飯ご飯ご飯ご飯ご飯!まずご飯を完食してしまった…(鮭弁当なのに)ふりかけは付けない方が良いのかもしれない。
そして、鮭、ポテトサラダ、ソーセージ(ピーマンは残す)きんぴらはほぼ手つかず…。
冷めたものを食べるのだ。作りたてでもあまり食べないようなおかずはやめた方が良いのかもしれない。でもなんだろう?バランス良くって考えてしまう。。。
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3日目は、冷凍バーグのケチャップソース煮と、同じく冷凍スパゲッティ(1日の残ったものを冷凍してみた)。人参の梅煮、ポテサラチーズ餃子、卵焼き。

今日はバランス良くご飯とおかずを食べていた。残ったものは…人参の梅煮!やっぱり(;´д`)トホホ…